ファッションビジネスに携わっているのはどういったきっかけからだったのですか?
僕の家は地方では大きなテーラーをやっていて、卒業したらロンドンのサビルロウに修行に行って来いということでパターンメイキングも勉強したし、英会話も勉強していました。しかし学生時代にヨーロッパへ行くうちに、どうも自分のやりたい仕事はマーチャンダイジングだと思うようになりました。マーチャンダイジングを身に付けるならヨーロッパではない、NYしかない。それでNYに行きました。家業は継がない、ほとんど勘当ですね。家業が家業だから(ファッションとは)近かったけれども、服をつくろうとかデザインを勉強しようとかいう気持ちは全然起こらなくて。しかしデザイナーの協会をつくってデザイナーを応援するとは想定外でした。たまたま三宅一生たちと一緒にごはんを食べていて、なんとかしてよって言われて。でも自分のやりたいことはマーチャンダイジングでした。アパレルメーカーや百貨店から様々な相談がきていましたし、マーチャンダイジングとはこうあるべきだという話もしてきました。日本にはマーチャンダイザーがいないので学校をつくろうと言って、経済産業省や墨田区などと話し、IFIというビジネススクールを官民共同で作りました。スクールのカリキュラムを作ったり自分でも教えたりしていました。
CFDはデザイナーたちに請われてスタートしているとのことですが、それはどのような経緯でしょうか?
ミラノやパリやNYには独立独歩で運営されているデザイナーたちの組織がありました。ところが当時の東京にはそういった組織がなかったので、日本のデザイナーはバラバラで、意見もまとまりません。そもそも各々個性の強いデザイナーはまとまって何かしようというには不向きなわけですが。固まらないと社会性が出てこないわけです。社会に対するインパクトが足りない。発言もそれぞれが勝手に言っていたら「それは自分のブランドのために言っているんだろ」ってなってしまう。デザイナーだって本当はもっと社会との関わりがあるはずですよね。デザイナーの会がどれだけ難しいかも知っているし、デザイナーが集まるとインパクトがでかくなるということも知っています。デザイナーが手をたずさえて何かをすることでムーブメントが起きる。例えばエイズ基金。7億円がバッと集まったりする。それだけ、結束するだけで社会にたいして発信できるのです。だからなぜ日本はバラバラでやっているのって話をしたわけです。三宅一生も山本耀司さんも川久保玲さんも当時確かに世界で一流だったと思いますよ。確かにあなたたちは一流だ。でもばらばらでやっている現状に対して責任は感じないのか?という話をしたのです。世界を引っ張っているデザイナーとして、集まって後進のために協会をつくって、次の人達に道を開けてやることや、社会に対して定義づけをする、発言をするということです。集まることで注目され、集まることで意見が言えるのです。当時は海外から色々な方が尋ねてきても、案内する場所がありませんでした。ここにいけばいい、というセンターがありませんでした。そのため国際交流はできませんでした。だから集まって東京コレクションを組織化しようよ、そして国際交流しようよ、デザイナーとして発言しようよと言っていたのです。
まとまらないと社会性が出ないということですが、CFD発足によってデザイナーの地位はどのように変わったと思いますか?
CFDは20年間続いたから応援してもらえるようになったわけです。実はCFDを作った当初、当時の通産省から社団法人にしてはどうかとご意見を頂いたことがあります。僕はデザイナーの組織は断固、独立独歩で、と思っていました。役所の下で認可されるような団体になる必要はない。でも必ずいつかは「仕方ないな、手伝ってやろうか」って言って下さったらありがたいなとは思ってやってきました。JFWができて、デザイナーを支援してやろうじゃないか、となったのは、やはりデザイナーがまとまっていたからです。まとまっていなかったらそうはならなかった。それから一番大きかったのは国際交流です。フランスのオートクチュール協会や近隣のアジア諸国と交流しています。それまでは窓口がなかったから、個々のデザイナーがそれぞれに頼まれて、頼まれたデザイナーが自分一人でできない、となると話はそれまでだった。窓口があれば海外からの情報が集まり、人が集まります。アメリカの例だけどエイズ基金のために、デザイナーは誰だって同じものを着るなんてイヤなのに関わらず、ショーのフィナーレでみな同じTシャツを着て、そのTシャツを売った。社会性のある行為だと思います。 CFDも阪神大震災のときにはショーの収益を送るなど、デザイナーにも社会に対して何かできることがあるんじゃないか、と考えてやってきました。デザイナーたちが色々な形で社会に参画しているというのは大事なこと。そういうことは個々のデザイナーではできません。自分自身、色々な情報発信をしてきたつもりです。
太田社長のブログや今までのお話から、社長はより消費者の方を向いたスタンスを取っていらっしゃるように感じます。前回のコレクションでは六本木ミッドタウンでのゲリラ的なショーという、多くの一般消費者に見てもらおうという試みがありました。一方で業界関係者には、ショーはプロのためのもの、というような守りたい部分があるのではないかと思います。東京コレクションは今後どのようにあってほしいとお考えですか?
東京コレクションは一般論では業界における新製品の発表会、なわけです。トヨタが新車発表する、モーターショーと同じことです。一般消費者にお届けするマスコミやバイヤーに見ていただく、買い付けて頂く、というのは筋だと思いますよ。ただ、それぞれの国にはそれぞれの特徴があるわけで、パリならそれで十分。日本ではありがたいことに若い人も高齢の人も、一般の特権階級じゃない方が普通に服を買って下さる。また、街がファッションを変えてきているという要素もある。一般消費者とデザイナーとの距離があまりない、というところに東京というファッションシーンの特徴がある。パリコレはその辺を歩いているパリ市民には何の関係もないですよ。でも東京は会場の外を歩いている人と、会場の中で行われているファッションショーがリンクしている。だったらもっともっとエンドユーザーに近いところでやってもいいのではと思っています。もちろん色々な考え方があっていいのですが、僕は東京コレクションを一般の人がもっと身近に感じられたらいいと思います。僕が学生のときに京都の近代美術館で、NYのメトロポリタン美術館で行われていた「現代衣服の源流展」というファッションの展覧会がありました。ヴィネオの服を近くで見て、ステッチはゆがんでいるし荒っぽいし、古くなって干からびているしで、なんじゃこりゃと思いました。でも離れて見てみたら、ギリシャ彫刻のようだった。美しかった。人が造ったものだけれど人を惹きつける美しさがある、ファッションって不思議なものだなと思いました。そこでやってみるか、ファッションを仕事にするか、と決めました。同じように東京コレクションを見て、この業界でやるぞ、と思う若者が出てくれればいいな、と思います。そういうこともファッションビジネスが社会に関わりを持つ意味だと思います。高田賢三さんも三宅も、どうなるかわからないけどとりあえず行ってみようとパリに行きました。彼らは本当の先駆者です。本当に苦労をした。風穴を開けた。東洋人が西洋人に西洋の服で袖を通させるなんてありえないですよ。そのありえない、夢を実現してしまった。それはすごいこと。でも同じだけ苦労をした。道がなかったなかで道を作ってきた。それほどの苦労をしてきた三宅に言われたからCFDをやりました。道なきところに道をつくってきたけれども振り返ったら草ぼうぼうなんてことにならないように。後進は、しなくていい苦労はしなくていいじゃないかと。三宅も僕も、とにかく、若い連中にチャンスやろうよ、というのが共通です。日本は(ファッション)後進国です。ヨーロッパでデザイナーやマヌカンという職業ができたときに日本はちょんまげをやっととったかどうかのところ。それなのに短期間で三宅や賢三さん、川久保さんが一流になれたというのは西洋とは違った美意識を持っていたからであり、器用だったからであり、そういうことじゃないかと思います。ヨーロッパが100年かかったことを日本は30年くらいでやったから、日本にはそれだけの文化力があったということだと思う。ただ、日本が悪いのは団結心がないこと。中国人は団結力があって世界のどこに行ってもチャイナタウンがある。団結しなければパワーが出ない。価値観の違うもの同士がひとつのバスケットに入ることを嫌がるのだけど、ひとつのバスケットにみんなりんごである必要はない。りんごもあればみかんもある。それでいい。ただ、バスケットに入ろうよ。それを言いたい。アメリカは大同団結するけれども思いはバラバラ。日本は大同団結する以前にバラバラであることをすごく大切にする。目をつぶって大人になって団結した方がいいところは団結すればいい。日本でさっきのエイズのTシャツをやろうとなると、まずそれを誰がデザインするのってなってしまう。JFWに経済産業省が出てくることに対してぎゃあぎゃあ言う人もいるけど、いいじゃないと思う。役人の方の中で一生懸命やってくれる人がいれば素直にありがたいと思う。形式にこだわることはない、大切なのは中身。何本ショーをやったとか、何人集まったかではなく、とにかくJFWからおもしろいデザイナーが出ること。それが一番大事。だからJFWがうまくいったかどうかは数値化できない部分があります。
時代の変化、価値観の変化をデザイナーなどものをつくる人間はどういうところから感じとっていくべきでしょうか。
売り場に出よ、街に出よ、です。ジャン・ポール・ゴルチェやアルマーニだってよーく、売り場を歩いています。時代の空気を吸っているのです。何もマーケットのトレンドに合わせる必要はないし、お客さんのニーズに合わせる必要もない。ただ、お客さんの目指している大きなベクトル、それは知らないとかっこわるい。トレンドを知っていてハズすのはかっこいい。知らずにハズれていたらただハズれているだけ。トレンドは知ったからって乗らなくてもいい。ゴルチェはトレンドをハズすのがうまい。それは価値観としてずれていない。だから彼はすごい知的な人。
世界における現在の日本の立ち位置はどうでしょうか?
Far EAST。その名の通り。とってもとっても遠い東方の国。よほどのことがなければ訪れない。でもこれからがチャンス。要素が2つある。まず、ユーロが当座のところ下がらない。日本でものを買うこと、作ることが安い。為替の状況によってはメイドインジャパンがすごく強みになる。腕はいいし。技術はあるし。そこにいいデザインが加われば。だからメイドインジャパンが復活する可能性がすごくある。現に海外ブランドも素材は日本のものを使っていることが多い。もうひとつは、今、世界中のラグジュアリー系のセレクトショップ、百貨店のどこにいっても同じブランドばかり。同質化していれば必ずへそまがりが出てきて、違うもの探そうよ、というのが必ず出てきます。となると新しい才能を探そうと、必ずそうなります。残された発信拠点、東京は、ちょっと変わったものを見つけるのにいいマーケット、となる可能性があります。 1981年頃、バーニーズの買い付けをするのに、当時流行のいかつく肩パッドの入った服はそんなに沢山の人が着られるものではないので、そればかりを買い付けるわけにいかず、ヨーロッパでは予算が使い切れず余ってしまった。そこで、すでに扱っていたイッセイのほかにも何かないのかなと、東京を訪れた。そこでコム・デ・ギャルソンやヨージヤマモトを見つけました。日本のデザイナーのブランドを集めて持っていって、アメリカメディアに紹介しました。次のシーズンにはライバルがいっぱい日本に来ていました。海外のバイヤーが日本に何を求めているかと言うと、ひとつは日本のオリジンズ。西洋にはないもの。織物技術だったり、日本の美意識だったり、ジャポニズムを感じさせるもの。もうひとつは東京の「かわいい」。それらはかつて欧米社会では鼻つまみものだった。しかし漫画アニメで日本の文化が浸透していくと、生活の中で「かわいい」って大事な要素なのだな、となってきた。日本の伝統と今日の東京の「かわいい」といった市民性は世界の中で異質なものだからそこに可能性があると思う。
「異質なもの」というと、物珍しさから一時的に評価されているだけのものにはなりませんか?
出発点は「一時的」であっていいと思う。でもそういったものが次から次へと出てくることでそれらがひとつの系譜になっていく。ファッションビジネスで働く人たちは基本的に変わった人が多いからだろうけれども、自分たちが異質なそれを育ててやろうという意識が出た。ただ、一過性のものでなくひとつの価値になっていくにはパワーの塊にならないと。よく、高田賢三と三宅一生が比較されるけれども二人は全く違う。世界のファッション市場は今、とんでもない格差の只中にある。高いものと安いもの、どっちかで、真ん中はだめ。デニムはデザイナーズコレクションでは出なくなった。ジーンズがだめなのではなく、デニム、という素材のごわごわ感が、今の時代の価値からは違ってきている。価値観は変化しています。マーケットはもっといいものを求めています。質感が高くないとだめ。でもアルマーニやラルフローレンを着ている人も、チノパンまでラルフローレンである必要はなくてGAPで十分だったりする。そこを使いわけているお客様がいることを意識しなくては。
最後に代官山コレクションに参加する若手にメッセージをお願い致します。
日本のファッションデザインの世界は歴史が無いから色んなところでまだ未成熟なところがあります。一番に未成熟なのはデザイナーがデザインしなきゃいけない、ということに対して明確になっていないんじゃないかなと思うこと。先人のデザイナー達がやった上っ面のかっこいいところをマネする。彼らが裏でしている努力を彼ら自身見せようとはしないのでわからないだけで、本当はものすごい努力をしています。素材を開発することであったり、時代の空気を吸うことであったり。また、英語がしゃべれることも大事。英語がしゃべれると臆することが無いので。臆することがなければ情報が入ってきます。モデルだって友達に頼んだっていいじゃない。生地だってはじめはお願いしてあるものを分けてもらえばいい。自分たちで工夫して普通の素材を普通じゃない見せ方にすればいい。一流のものが揃わなければできないように思ってくさっている人がいっぱいいる。外面から入るから誤る。デザイナーってそう簡単に才能があったからってできるものではなくて、デザインはチームがなければできません。苦労を共にしたパタンナーさんが付き、よし、売ってやろうというバイヤーさんが付き・・・というように。自分に才能があれば成立するっていうのは間違いです。ものづくりの現場の苦労を知ること。デザイナーたちには日本の職人たちともっと交わってほしい。
太田 伸之
株式会社イッセイミヤケ
代表取締役社長
1953年三重県桑名市生まれ。
明治大学経営学部で在学中からマーケティング調査や業界向けに記事を執筆。
明治大学経営学部卒業後はNYに8年滞在、繊研新聞通信員、バーニーズニューヨークコーディネーター。
1985年東京ファッションデザイナー協議会(CFD)設立のために帰国。
1995年東京ファッションデザイナー協議会議長を10年間勤める。退任後、鞄結梵カ活研究所 所長就任。
2000年株式会社イッセイ ミヤケ代表取締役社長。
2006年JFW(日本ファッション・ウィーク)実行委員会委員
イッセイミヤケHP http://www.isseymiyake.co.jp
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