アタッシュドプレスのお仕事について教えて下さい。
ファッションの仕事につきたいと思っていたわけではなく、昔から好きで勉強していたフランス語がきっかけでこの業界に入りました。しかし仕事をするうちにファッションの面白さに目覚め、ファッションをきちんと勉強したいと思い、会社をいったん辞めて専門学校に行きました。
そのころのパリではアタッシュドプレスという仕事が確立されていて、パリの友人にも仕事をしている
人がいて色々な話をしている中で、日本においてもこれからアタッシュドプレスという仕事は必須になってくるのではないかと考え、会社を設立しました。
設立後は主にヨーロッパや日本のファッションブランドのPRをしていましたが、最近はファッション以外
のライフスタイル関連のPRもしています。以前はメディア側も例えばファッション誌ならファッションをメインに取り上げていたのが、だんだん時代も変わり、消費者のニーズも変わってきて、衣食住の情報を網羅し紹介する等、ライフスタイルに関する情報を扱うようになりました。この様なことから、ファッション以外の異業種の会社から、ファッション誌に強いPR 会社ということで仕事のご依頼を頂くようになりました。
PRの仕事は、ブランドのイメージを訴求して、広く広報する仕事です。通常は会社の中に広報室というセクションがあり、いわゆるハウスプレスという担当者がPRをしていくわけですが、私たちは独立した
PR会社ですからその会社の広報セクションの仕事をアウトソーシングという立場で、仕事を行っていくわけです。もちろんハウスプレスの様に仕事をこなしていく事は必須ですが、私たちがPRを始めたブランドやモノやコトがメディアから見て、この人がやっているものは面白いよね。この人ががやっているなら見に行こう。と言ってくれるような位置づけに自分つまり会社のポジショニングが常にあればと思っています。そして会社を設立してから18年の月日が経ちました。
鈴木さんがこの人は、と思うデザイナーでも世に認められたり、そうでなかったり、とあったと思いますが、今までいかがでしたか?
若手のデザイナーだとどうしても資金力が無い場合が多いですよね。実際、PRを依頼される場合、
ビジネスライクに考えるとお金の話抜きにはできないのだけれども、それでも応援してあげたい、一緒に立ち上げたいというデザイナーもいました。
又、若手でありながらスポンサーが付いて、デザインも世に認められて、感性が素晴らしいという場合でも、その後スポンサーとうまくいかなくなったがために、なくなってしまったブランドもあります。本当に残念な事です。若手の方にとって大切なことは、クリエーションとビジネスをどうつないでいけるか?ビジネスパートナーを見つける事が大切です。クリエイティブに走りすぎるのではなく、やはり売れなければ成り立ちません。又、自分の置かれている社会的背景がどうなっているのか、さまざまな状況を考え、その上でコレクションや展示会をやっていかなければなりません。本当に大変だと思います。
ビジネスパートナーを見つけるには、また応援される人になるにはどうあるべきでしょうか?
私自身の場合、やはりコミュニケーションを大事にしてきました。
その結果、今までの仕事は全てご紹介でご依頼を頂いてきました。
営業をしたことはないんです。これは本当にありがたい事だと思います。
小さなことでもきっちり…自分なりに。やってきた結果かもしれません。
コミュニケーションや思いやりというのはベーシックなことかもしれませんがいつも仕事をする上で
心がけてきた要素です。
例えばバタバタしているときにふと声をかけられて、頼まれたことを忙しさにまぎれて忘れてしまったら、それはそれで終わってしまいます。即効性が必要です。だからいつも紙とペンがポケットに入っています。書いておけば忘れません。自分にコミュニケーション力があるかというとそうは思っていなくて、でも要点を抑えて、相手の立場に立って考えて、そうすれば必然的にやるべきことが見えてきて、やる。ただ、それだけなんです。
鈴木さんは田賢三氏のアタッシュドプレスを務めていらっしゃいますが田氏はどんな方ですか?
彼はすごく繊細でまた、人に対してとても気を遣うデザイナーです。
著名なクリエーターなのに決して威張ることなく、人にとても優しいんです。
みんなでミーティングをしているときに、ふと立ち上がって、空気を入れかえる為に窓をそっと開けるなど、さりげないことなのですが、自然に出来る人なんです。なかなか出来そうで出来ないことだと思うのです。いつもまわりの事を気にかけられる人なんです。
人柄の素晴らしさを思わせるできごとがありました。
田がブランドをスタートさせて30年、そして60歳。2000年を期にブランドを新しいデザイナーに継承して、自分はブランドを去る際、1999年10 月に大きなショーをパリのゼニットというコンサートホールで行いました。日本からは故・山口小夜子さんや、今までショーに出たモデルたちや友人たち皆が、全世界からパリまでかけつけて下さいました。総勢100人以上もです。そしてその30周年のショーにその友人たち関係が出演してくれたんです。まさに田の人柄と人脈を目の当たりした瞬間でした。その年の12月31日、もうすぐ日付が変わろうというころ、海外でバカンスを過ごしている高田から電話がありました。「今まで本当に、ありがとう。そしてこれからもよろしくね。」と。
涙が出るくらいうれしかったです。本当に今までやっててよかった、と。
これからもずっと支えていきたいし、学ばせて頂こう、と思いました。
日本との時差を計算して電話してくれたんです。その心遣いに感動しました。私にとって、1999 年12 月31 日、は忘れられない日です。
日本人クリエーターならではの良さはどんなところだと感じますか?
海外で、日本のクリエーションは独特であると見られていると聞いた事があります。でもそれは単に
異質なものということではなく、日本のクリエーションの素晴らしさ、デザイナー一人一人のIdentityの
素晴らしさが認められているという事です。
田の話になってしまいますが、彼が’70にパリでコレクションを発表した際、一躍注目を集めたのは、時代背景と彼のクリエーションがマッチしたからでしょう。オートクチュールからプレタポルテに変わるようなシチュエーションの中で、又若者が自由を求めているそんな時代、窮屈な服からゆとりのある服へというように、今までしめつけるような服が主流だったとき、田はゆとりを提案したのです。それは着物のからの発想でした。素材面では、コットンは夏の素材という概念をくずし、コットンに綿を入れ、つまりキルトして、暖かいものにして秋冬コレクションで発表したり、又、着物の羽織の要素を生かして、ジャケットの裏を赤にしてみたり。田には自由な発想がありました。
日本のアイデンティティを取り入れたことと、田の才能もありますが、時代の背景がリンクしブレイクしたのだと思います。コレクションも、予算的にショーモデルを使えなくて、当初はスチールモデルでショーをしていました。スチールモデルだとウォーキングが上手くできないので、ウォーキングをするのではなく好きなように踊ったり跳ねたりしてコレクションを行ったのです。それが新しいコレクションの発表のかたちになりました。デザイナーのクリエイティビティや感性も大切ですが同時に、時代のニーズも重要です。
時代のこれからを感じ取ることも必要ということですね。
プレゼンテーションの方法やタイミング、そしてビジネスをどう展開していくか?多分…運や天性だけではなく、全ての要素が一つになったとき成功があるのではないでしょうか。デザイナーは自分の感性というフィルターを通して服を世に発表します。さらに付加価値をどうプラスしていくか?が、私たちPRの仕事だと思います。
仕事のために努力していること、気をつけていることにはどんなことがありますか?
通常、あまり時間がないので色々出かけられませんが、休みの日は、精力的に外出する様に心がけています。美術館や新しいプレゼンテーションを見に行ったり。又、海外の友人と情報交換したり、又実際現地に行ったり。ドメスティックになってしまうとそこの中で終わってしまう。今は国境のない時代です。ネットという手段もありますが、自分の足で歩いて目で見て。例えば。同じ場所に何度行っても自分の状況が違えば景色も見え方も違ってくる。人のネットワーク、自分の感性、情報量をどう広げていくか?をいつも考えていますね。
人を介して自分の幅が広がるということでしょうか?
100 人いたら、100 通りのものの見方ってあると思います。
例えば「これ、きれいね!」と言って同じ「赤い色」を見ていても、「赤」に対するベーシックな考え方、「赤とは?」というのは人によって違いますよね。
そうするとそこで色々な会話が出てきて、ああ、そういう風に捉える人もいるのか、と思ったりする。
また、見たこともないものを見る、経験したことのない事にチャレンジするのも大切だなと思っています。最近は、日本の伝統工芸を見たり体験したり…歌舞伎や文楽を見たり。自分を色々なシチュエーションに置く又、触れ合う事で感性が豊かになり、気持ちも前向きになります。
日本の文化の歩みを見た方がいいな、と。
それもあると思います。海外への目も大切ですが、母国である日本にもまだまだ自分の知らない素晴らしいモノやコトがたくさんあると思います。
日本だけという事ではありませんが、自分で感じたことやものを仕事を通じてPRのクリエーターとして現すことができたらいいなと思います。
パリにいた時間も長い鈴木さんですが、海外から見た日本や、日本の立ち居地の変遷はどのように
感じていらっしゃいますか?
はじめてパリに行ったころは(大分前ですが)「あなたのお父さん、ちょんまげしてるの?」なんて言われました。その当時はファーイーストな国だったのでしょう。というか、日本って本当にちいさくて遠い遠い国という印象だとよく言われました。今とはまったく違いますね(笑)。
JFWでメディア担当をされていますが、JFWでの活動や経験から何かアドバイスを頂けますか。
今、私はJapan Fashion Week in Tokyo(以下JFW)のメディア対応の仕事をさせていただいておりますが、海外のメディアやバイヤーが日本のカルチャーやファッションにとても興味を持っています。
JFWは今年3月で第6回目を終え、今年9月に第7回目を開催します。
JFWがパリコレ、ミラノのコレクションに近づくとかではなく、アジアの中心として、アジアの発信地という位置づけになればと考えています。日本は発信力のある場所に絶対になると思います。
日本から新しいクリエーターたちも出てきています。アメリカのバイヤーと話したときにこんなことを言っていました。日本に良いと思うクリエーターはいるのだけど、実際コンタクトしてみると英語がわからない。じゃあネットで探す、ところが日本語のホームページしかなかったり。だから買い付けしたくてもできない。
発信する方もインターナショナルな視野が必要になってくると思います。
昔は海外のバイヤーに評価してもらうためにはパリコレに出て行くしかありませんでしたが、今はそれだけが可能性ではないのですから。
株式会社PAS A PAS
代表
鈴木三月
東京都 世田谷区出身
1979年パリソルボンヌ大学、Institute Catholique 大学留学
1980年慨BA皆rench Fashion Center
Federation Francaise du Pret-a-Porter feminin Japon 入社
1982年SUNデザイン研究所・スタイリスト科入学
1983年潟Gルカ入社
販促、広告宣伝、広報室勤務
1990年潟Gルカ退社
1991年潟pザパ設立
ヨーロッパのファッションブランドのPRを主に手掛ける
その後ライフスタイルにまつわるPRを業務として広げる
2000年階ENZO TAKADA 設立
高田賢三氏共同経営として高田賢三氏の今後のビジネス
パートナーとして活動開始
2006年潟rズ設立
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